社長の挨拶
当社は大正14年の創業以来、一貫して機械工具および、自動車整備用機器の専門商社として幅広いニーズに応えられる体制をつくり、着実に今日の地位を築いてまいりました。物を加工したり機械の整備点検には工具(手の代わりをするハンドツール)は必要不可欠なものです。いかに優れた機械設備でも、工具がなければ稼動・整備保全ができないと云っても過言ではありません。一方では、産業界において省資源化、自動化など、新技術への対応の確立が求められています。これらのことから当社では、取引先の繁栄につながる情報提供、業界での長年の活動と経験を生かした新製品開発機能の充実で、メリットある専門商社として、みなさま方と共栄の実を結べますよう努力いたす所存でございます。
前田機工株式会社 代表取締役社長 屋敷 高夫
会社概要
所在地
大阪市西区新町3−13−25
創業
大正14年1月15日
創立
昭和16年11月4日
資本金
2億7500万円
従業員数
110名(平成22年1月現在)
拠点一覧
大阪、東大阪、東京、東東京、仙台、横浜、名古屋、広島、福岡
事業内容
機械工具、自動車整備用工具・機器、自動車鈑金省力化システムの販売、オリジナル機器・商品の開発販売、損害保険、リース業
会社沿革
歴代社長
年号(就任年月)
沿 革
前田軍治
大正14年1月15日
大阪市此花区(現在の福島区)上福島2丁目において、前田軍治商店創業
昭和7年1月
大阪市西区立堀南通6-15に移転
昭和13年8月
製造部門として前田金属工業株式会社を創設
昭和16年11月
株式会社前田軍治商店に改組
昭和18年1月
前田機工株式会社に商号変更
昭和19年5月
大阪市港区湊屋浜通に湊屋工場を建設、海軍管理工場となる
昭和20年3月
本社、工場とも空襲のため全焼、大阪市北区曾根崎中2-10にて復興
昭和21年3月
本社事務所を大阪市北区永楽町33に移転
屋敷定雄
昭和22年10月
屋敷定雄氏就任
昭和35年3月
大阪市西区立売堀南通5丁目(現表示新町3丁目)に本社屋・竣工・移転
昭和38年6月
東京都港区芝西応寺町に東京出張所を開設
昭和39年4月
東大阪市金物町の金物団地に総合倉庫を竣工
昭和41年3月
東京都出張所を東京都大田区大森北3丁目に移転、営業所とする
昭和41年9月
広島市青崎1丁目に広島出張所を開設
昭和44年4月
広島出張所を広島市東観音町23に移転、営業所とする
昭和46年1月
東京営業所を東京都港区三田5丁目に移転、支店とする
昭和47年7月
名古屋市昭和区鶴舞2丁目に名古屋営業所を開設
昭和48年8月
東京支店、新社屋竣工
昭和50年6月
仙台市宮城野区扇町3丁目に仙台営業所を開設
昭和51年3月
福岡市博多区東比恵2丁目に福岡営業所を開設
昭和51年7月
東大阪市金物町4丁目に東大阪営業所を開設
昭和52年9月
大阪市西区立売堀4丁目に大阪・本社倉庫を竣工
昭和52年10月
仙台営業所を仙台市宮城野区扇町7丁目に竣工・移転
昭和52年11月
福岡営業所を福岡市博多区博多駅南3丁目に竣工・移転
昭和54年5月
横浜市西区平沼1丁目に横浜営業所を開設
昭和56年5月
広島営業所を広島市西区商工センター5丁目に竣工・移転、広島支店とする
尾崎行雄
昭和57年10月
尾崎行雄氏就任
昭和58年3月
横浜市西区平沼1丁目に土地・建物を購入、横浜営業所を移転
昭和58年3月
仙台営業所内にオートポール・システム研修センターを開設
昭和62年10月
群馬県伊勢崎市日之出町419に北関東営業所を開設
昭和63年5月
北関東営業所内にオートポール・システム研修センターを開設
平成元年11月
横浜営業所、新社屋竣工
屋敷高夫
平成3年2月
屋敷高夫氏就任
平成3年5月
全社オンライン網完成
平成5年4月
仙台営業所を仙台支店とする
平成10年5月
横浜営業所を横浜支店とする
平成10年7月
本社営業部を大阪支店とする
平成11年7月
前田機工Webサイトを開設
平成14年12月
東大阪営業所を大阪支店に統合
平成15年3月
大阪・本社倉庫を東大阪市金物町に移転、商品センターとして開設
平成15年8月
新事業部の取組として株式会社フロンタを設立
平成17年1月
創業80周年を迎える
平成20年1月
東大阪市金物町に東大阪営業所を開設
平成21年1月
名古屋営業所を名古屋支店、福岡営業所を福岡支店とする
平成21年6月
東京支店を東京都大田区大森本町に新築移転する
平成21年11月
東京都墨田区東駒形1丁目に東東京支店を移転開設、東京2拠点体制とする
創業から現在までの流れ
当社は創業以来80数年になり、創業当時のことを知る方は少なくなりました。
僅かながら残っている記録から創業者の生い立ち及び創業から現在までの流れを紹介します。
当社の創業者前田軍治は明治35年7月4日福井県丹生郡三方村杉谷の農家に生まれ、高等小学校卒業後、家の反対を押し切って大阪に出て働くことにし、口入屋(今の職業紹介所)の周旋で大正8年2月大西三郎商店に入店する事になった。高等小学校出の前田軍治は向学心もあり中学校卒業の資格が欲しいとの思いで仕事にもなれた頃に店主に夜学通学の許しを申し出たところ主人の英断によって許可された。4年がかりで専修科を卒業し、さらに専門部へとの思いで入学した関西大学専門部予科は午後4時始業で、しかも制服制帽着用の厳格な規律のため、南区安堂寺橋通りの主家から通学するのは到底時間的に不可能であった。そこで前田軍治は大西三郎商店の住み込みから離れて上福島2丁目に貸家の一室を借り、そこから通勤通学するようにした。そのため大西三郎商店店内では彼だけに特別扱いとの不満の声が大いにあがり、それならとのことで借家の一室を店舗として大正14年1月、独立開業するに至った。前田軍治24歳のときであった。
創業当時店舗のあった上福島2丁目界隈は今も昔もオ−トパ−ツ(自動車部品)の店が多く東京の赤坂溜池山王の界隈とよく似ていて、近くにはフォ−ド代理店の福田自動車商会とかシボレ−代理店の豊国自動車の双璧が電車通りをはさんで斜め向い同士にあった。(豊国シボレ−は現在の大阪トヨタのある場所)当社創業の店はフォ−ドとシボレ−の代理店商社のある電車通りの角を南に少し入ったあたりにあった。前田軍治は近所付き合いもあり努めてそれらの会社、商店に出入りして馴染みになり、以前にも増して自動車のサ−ビス用具に関心を持つようになった。その研究の結実から後に前田金属工業を創設する事となり、前田機工が自動車工具にも関連が深いのはこの辺が底流になっているものと思われます。
その頃の大西三郎商店(他の工具商でも)の販売商品はペンチが主力であった。大西三郎商店では舶来品で有名なヘンリッヒ・ボ−カ−社のアロ−ブランド(矢印)を真似て、大西の頭字OSを矢で突きさした「矢印」の商標とし、それを大阪鶴橋の辻丑松工場に製造依頼し発売して好評を博した。大西三郎商店の番頭であった加納竹五郎が退店独立して同じく辻丑松工場に「ブルドック」印ペンチとして売り出し両ブランドは対抗した。前田軍治は大西三郎主人には深い恩顧があり加納旧番頭にも義理がありどちらの製品も取り扱う事が出来ず板ばさみになっていたところに室本金助氏からペンチ販売の売込みを受けた。室本金助は弟の和三郎(現室本鉄工の先々代)と生野区猪飼野でペンチの工場を営んでいた。当時舶来ペンチの主流だったユ−チカのマ−クを真似て菱を三つ横につなぎ並べ、メリ−印として発売を考えていた。前田軍治は総発売元を引き受けることにし、その当時ユ−チカはダ−ス17〜18円したがメリ−印ペンチは6吋でダ−ス6円50銭、7吋で同7円50銭、8吋で同8円50銭の相場で販売し好評を得るようになった。これらのことからメリ−印ペンチは当社が現在扱っている商品の中で最も長い取扱いということがいえます。
前田軍治は独立開店翌年に、叔父の紹介で竹内千代野と見合い結婚し、昭和7年に店舗を西区立売堀南通り6丁目に移しました。将来への更なる飛躍を期して郷里の福井県下の商業学校に新卒者の推薦を依頼したところ、敦賀商業学校から屋敷定雄が応募し昭和8年3月に入店しました。忠勤に励んだ屋敷定雄はやがて支配人となり、その頃店の一員として仕事を手伝っていた千代野夫人の妹、竹内ヨシノと結婚し、前田軍治が前田金属工業を創設後しばらくして、前田機工の社長になりました。昭和10年に福井の高等小学校を卒業した尾崎行雄と山本猛夫氏がそろって入店しました。尾崎行雄は昭和57年10月、屋敷定雄の後3代目社長に就任しました。屋敷定雄の長男、屋敷高夫が平成3年2月、4代目社長に就任、現在に至っております。